歌舞伎発祥400年。阿国は当時最先端の変わり者、つまり“傾(かぶ)き者”だったのに、今では伝統芸能なんて骨董品めいた響きに敬遠されがちな歌舞伎。とはいうものの江戸時代から生きてる役者がいるわけじゃなし。80歳超のベテランもいるが平成生まれの子供まで幅広い年齢層の現代人が演じてるんだもの。コンビニに携帯電話の普通の生活から江戸の暮らしへと、自在に行き来し変身する歌舞伎役者はまるで時の旅人のよう。そんな旅をちょっとのぞいてみよう。旅人のひとり、坂東弥十郎さんに根掘り葉掘り。(Joy) |
弥十郎さんインタビュー第三弾 十八代目中村勘三郎襲名披露で大いに盛り上がっている歌舞伎座。先日@niftyシアターフォーラムでオフ会を実施したところ、普段はあまり歌舞伎を観ないという参加者が多く、口上を観るのも初めてという人が大半。観るもの聞くもの全てを珍しいがった参加者からの質問をもとに弥十郎さんにお話を伺いました。 (2005年3月19日12時〜 歌舞伎座楽屋にて) ■ご出演の「猿若江戸の初櫓」(※1)はとてもお目出度いお話ですが演目はどのようにお決めになったのでしょう? 勘三郎さんと松竹とが話し合って決められたのではないかと思いますが、序幕に息子さんがやられるのに丁度良い演目だということでしょうね。 ■荷車に乗っていた蓬莱山というのは? お目出度い時にいろんなもので蓬莱山を模って作って将軍家へ献上する習慣があって、呉服の反物で作ることが多くあったらしいです。それを舞台で見せるため様式的にああいう風(荷車に載せた)にしたんだと思います。献上物の象徴のようなものです。 ■口上で並んでらっしゃる人数がとても多いように思います そうですね。大きな襲名なのでいつもより人数が多いようですね。(※2) ■襲名される方を紹介する役には呼び方はあるのですか? 特にはないと思います。お披露目される方、披露する方ですね。 ■座る順番に決まりはあるのでしょうか? 芯に襲名される勘三郎さんがいらして、ご披露する方がすぐ右。芯の次は大上手(おおがみて)で大下手(おおじもて)。上手と下手が2つのグループになっていて、それぞれが外から中また外から中と段々(交互)に名前の順番に座っています。 ■勘太郎さんはお身内だから勘三郎さんのお隣にいらしたのですか? そうです。 ■皆さんがお召しの裃の色は? それぞれの家の色です。呼び方がそれぞれにあって、例えば神谷町のおじさん(芝翫さん)の裃はグリーンぽくてとても茶色には見えないでしょうが“芝翫茶”という色です。うちの色はオレンジ色っぽいですけど“大和柿(やまとがき)”と言います。みんな夫々に名前があって、例えば普通に柿の裃っていうと、とても柿の色に見えないですよね。成田屋のおうちの色ですが、どうみても茶色なのに、でもあれは柿の裃って言います。(※3) ■大和柿と柿、同じ柿でもかなり違う色にみえます 日本の色っていうのは、分けていくとすごく数が多いし名前も非常に細かく付いているんですね。浅黄(浅葱)色なんて言われても今の人達は浅い=薄い黄色のことかなって思われますよね。カワイロ(革色)とかカバイロ(樺色)とか、名前は似てても全然違う色だし。それぞれの家でその色の名前があるし、ご自分の家の名前が付いてる色もあるし。 ■客席からだと弥十郎さんの裃と勘三郎さんの裃のほうが色が近いように見えます 最近は染料がなくなってきてるので、どうしても近いような色になってしまうのでしょうけど、近くてちょっと違いますよね。洋風に言えばイエロー系とオレンジ系の違いですね。筋書や表の看板(※4)で勘三郎さんが着ているのはまた違う裃ですね。それは昔の錦絵に−猿若座か中村座になってからかもしれませんが−座元の絵があって、それを先代の中村屋のおじさん(=十七代目中村勘三郎さん)がご覧になって起こして作られたらしいです。だからこの裃の時は刀をさしてるんですよ。 ■座元だから?(※5) そうだと思います。頭の形もみなさんそれぞれ違います。町人髷の方、侍髷の方、油付きでなさる方。それぞれにその家の発祥の理屈がありますので。 ■松本幸四郎さんの頭が市川家と似ていますね(※6) そうですよ。もともと團十郎さんのお弟子さんから始まっているお家ですから。宗家から許しが出れば皆さん同じ髷の形にできる。ただマサカリ(鉞)の大きさとかが違ったりするんだよね?(と楽屋が同室でらした市川高麗蔵さん(高麗屋一門の役者さん※7)に聞いてくださる)
高麗蔵さん 同じマサカリでも袋付きっていう町人の頭の後ろの形と、後ろを油でテカテカに固めた油付きのとか。市川宗家はそれに櫛目が入っているんです。そういう風に同じ市川家でもちょっとずつ違って3,4パターンくらいあるんです。髷の形も“ヨキ(斧)”って言って加賀鳶みたいに町人髷で大きい形のもあります。 ヨキっていうのと比べるとほんとのマサカリは(毛先が)もっと小さくて油で固めたようになって。でも今は成田屋のお兄さん(團十郎さん)は年齢制限っていうか、子供で前髪のヨキからだんだん袋付きのヨキにして、大人になると油付きのっていう風に分けてるって考えてらっしゃるみたいですね。時代時代で違うみたいですね。成田屋宗家だけは櫛目の入ったものにしてる。 ■女形をされる方が女の拵えで出る時と男の拵えで出る時の違いは? お家の決まりや名前での違いもあります。あとは御自分が真女形だから女の拵えでとかの違いはあると思います。 ■全てに型が決まっていて伝統を感じます 口上の形っていうのも昔の本とか読むと頭取が端に並んでて一人ずつ出てくるという時もあったらしいですし、様式っていうのは随分時代によって変わってきているみたいですね。 ■ではこれから変えていく方もいるかもしれない? その方によるでしょうね。 ■並んでいるだけでなく全員が祝辞をおっしゃるのですね だいたい最近の口上はそうですね。 ■口上に並ばれた時のお気持ちは? 親戚なので(十代目)三津五郎襲名にも出演しましたがやっぱり感動的です。 ■勘三郎のお名前は十八代目と一番長く続いているんですね 序幕のお芝居でもわかるように、江戸へ来て芝居小屋を最初に建てた人が勘三郎だからですね。江戸三座筆頭の座元のお名前ですから代数は多いですよね。次に羽左衛門さんを継がれる方が出てきたら十八代目じゃないですか。これも市村座の座元の名前ですから。で、仁左衛門さんのところも十五代目ということは、関西の劇場の座元だったんですね昔は。うちの祖父から叔父に伝わった守田勘弥っていう名前は十四代で、やはり座元(森田座)の名前なんです。 ■一方、弥十郎さんは初代です。新しいお名前はどのように決められるのですか? 丁度継げそうな名前が無い場合は初代で名乗ることがあります。私の名前は父(初代坂東好太郎)と八代目の三津五郎のおじとが相談し、勘弥の伯父にも相談して決めました。 ■魁春さんのお名前も新しく作られたと思うのですが(※8) 六代目の歌右衛門のおじさまの俳名を継がれたんですね。もともと昔から(芸名ではなく)俳名(俳号)を継いで使う人はいたんです。うちの兄の吉弥っていう名前も何代目かの三津五郎の俳名なんですよ。 ■長い歴史の中で培ってきた名前の重さを感じます。勘三郎さんの襲名興行は歌舞伎座で3ヶ月の後まだまだ続きますね (昨年襲名した)海老蔵さんの襲名興行も今年6月に博多座があり、その後巡業にいくのでまだまだ続いて。だいたい3年間位じゃないですかね。 【参考】 ※1 「猿若江戸の初櫓」 初演/昭和62年。出雲の阿国一座と共に江戸に出てきた猿若(初代勘三郎)が、荷車を立往生させて困っている福富屋万兵衛を助けたことが縁で日本橋中橋に芝居小屋の櫓をあげることがでるようになった、という史実にフィクションを交えた中村座創設の狂言。 ※2 いつもより人数が多い 総勢19名。実際に座っていた順番、上手から中村雀右衛門、中村梅玉、市川左團次、市川段四郎、中村扇雀、中村魁春、片岡我當、松本幸四郎、中村芝翫、中村勘三郎、中村勘太郎、片岡仁左衛門、坂東玉三郎、中村東蔵、坂東弥十郎、中村福助、片岡秀太郎、中村又五郎、中村富十郎(敬称略)※3 色の名前 <参考サイト> ※4 表の看板 篠山紀信氏撮影の大看板が歌舞伎座前に設置されて道行く人の注目を浴びている。 歌舞伎を観ずとも看板の写真を撮る人多数。「初代から400年 新しい勘三郎。」のコピーは糸井重里氏作。※5 座元 御免を蒙って櫓を上げる名義人、芝居小屋に関するすべてに責任をもつ経営者のような立場。中村座の座元は代々中村勘三郎を名乗り、初代はじめ役者を兼ねる人がいる。※6 かつらの形 <参考サイト> ※7 市川高麗蔵さん <参考サイト> ※8 二代目中村魁春さん 平成14年に二代目中村魁春を襲名された。「魁春」というのは父・六代目中村歌右衛門さんの俳号。その六代目歌右衛門さんを初代と数えるため二代目ということになるが実際に舞台で名乗るのは初めて。 |
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