歌舞伎発祥400年。阿国は当時最先端の変わり者、つまり“傾(かぶ)き者”だったのに、今では伝統芸能なんて骨董品めいた響きに敬遠されがちな歌舞伎。とはいうものの江戸時代から生きてる役者がいるわけじゃなし。80歳超のベテランもいるが平成生まれの子供まで幅広い年齢層の現代人が演じてるんだもの。コンビニに携帯電話の普通の生活から江戸の暮らしへと、自在に行き来し変身する歌舞伎役者はまるで時の旅人のよう。そんな旅をちょっとのぞいてみよう。旅人のひとり、坂東弥十郎さんに根掘り葉掘り。(Joy) |
新作歌舞伎は稽古するの!? 3月は劇場までも行ったり来たり。歌舞伎座「與話情浮名横櫛」ではやくざの親分(赤間源左衛門)。国立劇場では新作歌舞伎脚本入賞作(★1)「実朝」(★2)で鎌倉時代の人間(北條泰時)にその姿を変えたのでした。“新作”って言葉が伝統芸能と出会うとどうなるの? ★1 新作歌舞伎脚本 ■黒衣(くろこ)が出ませんね 基本的になるべくなら出さない方がいいんですよ、どういうお芝居でも。ただ段取りという時点でそこ(黒衣)で処理しちゃおう、一番安易なことなんですね黒衣を出すということは。それに今回こういう舞台装置なので黒衣は似合わないですよね、忍者走ってるみたいでしょ(笑)。 ■(笑)とてもシンプルな装置でした 構成舞台で様式的なものです。シンプルな分、役者にかかる比重が大きい。新劇では20年ぐらい前によくやってた手法です。新作歌舞伎なのでこういうのもありですね。いろいろなやり方が工夫できる。 ■「実朝」には演出家の名前が記載されていますが、通常の歌舞伎では書いてないことが多いのでは? そうですね。それ(演出の名前が記載されていないもの)はもとが古くからあるお芝居の場合。演出って言葉が出来たのが結構新しいですからね。新劇とかの始まりぐらいから演出っていう言葉が出来て。昔もそういった役割をする人がきっと何人かはいたんでしょうけど、作者の人がみたりとか、主役の役者が全体的にみて決めたりとかが歌舞伎だったですから。改めて演出という肩書きは付かない訳です。 ■じゃ座頭が全部を観て決めるんですか? 今はもうだいたいの基のところが決まっているので、細かいところは夫々の(役者の)演出ですよね。型=演出じゃないですか。昔に上演されたパターンがいくつかあって、「僕はこれでやるよ」っていうと周りもそれに合わせる。合わせる勉強をしているから、だからお稽古が少なくても出来るんです。他のお芝居の場合、お稽古場へ入って最初はゼロから始めることが多いじゃないですか。そこから本読みが始まって。で、そうゆうこと全て、もうもとが決まっていて省くことができるので短いお稽古で出来るんです。ようするに普段の個人的な稽古が大事なんですね。 ■「実朝」は新作なのでお稽古は長かった? それほどでもないです。10日間あったか...その中でもお稽古ない日もありましたから。でも、こういう新作をやる場合、舞台装置が大体判ると自分がどこにいたらいいかっていうのが判る。一年365日のほとんどを歌舞伎の役者は舞台に立ってる(★3)じゃないですか、ですからよっぽど違った演出方法ではない限り、自分がどこにいたら一番いいのかっていうのを、みんな本能的にっていうか自然に判っているので、そういう意味ではあまり時間が掛からないですね。少しの立ち位置の修正とかで出来ちゃいますから。 ★3 歌舞伎の公演 ■新作でもいきなり立ち稽古から始めるのですか? 今回は一日だけ本読みをしました。で、すぐ次の日から荒立ちをして、立ち稽古を何回かやってっていう感じです。総ざらいがあって、舞台稽古2回やって。現代劇に限らずどんなお芝居でもそうですが、脚本に基本的な動きは書いてあるので、すぐに動けます。 ■それに基づいて役者さんが動くのを演出家がみている? いえ、こういった新作には演出家が必ずいますから、「こういう場合は上手から出ましょう」とか「これは奥にしましょう」っていう指示がまずあります。やってて役者との相談で「実はここは奥で出てみたい」とかいう相談は、どんなお芝居でもきっとあるんだと思います。僕が経験したお芝居ではだいたいそうですね。今回、紗幕の裏からの登場は僕が言って付け加えてもらいました。だから、どのお芝居だから遣り方が違うってことはなくて、歌舞伎でもほかの演劇でも基本的には違わないんです。ただ、毎月こうやって歌舞伎の公演ってやってるじゃないですか。お芝居やりながら次の月のお稽古も始まっちゃう。と他の演劇の場合ってもっとこう、お稽古の期間とか取ってありますから。本番当日でも朝来て一度合わせて稽古っていうことはあるんですね。それはベストだと思うんですよ。ただ歌舞伎の場合、古くからみんなずーっとやってきてるから、そこまでやらなくてもある程度出来ているのが当り前だという考え方なんで、逆になくても出来るぐらい普段個人でやってなきゃいけないってことでしょうね。 ■一年中舞台に出てらして、いつお稽古を? 舞台と舞台の合間に。(当日も国立劇場と歌舞伎座の出番の間にお稽古に行かれてました) 僕は初舞台が遅くて17歳の時だったんですが、始めた頃にはいい役なんか付かないですから、そういう時に時間さえあればいっぱい芝居を観てた。 ■そしてお稽古もする。何を習うのかは自分で決めるのですか? まぁ先輩からどんなお稽古をしてっていうのはあるので。でも小さいうちは踊りのお稽古しかしてなかったですけど。親が「ここへ行きなさい」って言うところへ。で、ある程度経ってからは長唄やお三味線とか鼓とか自分で捜して行きました。 ■気が抜けないですね 逆に抜こうと思えばいくらでも抜けるんじゃないですか。いかに気を抜かずに生きるか。舞台に出てない時にどうしてるかっていうのがみんな勝負なんでしょうね、きっと。 ■演出家がいる芝居では求められる芝居が出来るようにしておくのでしょうが、歌舞伎は自分でつくっておくのですか? 自分でつくると云うより、もともと決まっているものもありますし、新しい作品の場合はやっぱり演出家にまかせる。「これはこういう気持ちでもってやってください」と言われるようにやります。それで理解できるかできないか。なかなか理解できない場合は何回もお稽古して「そうじゃない、そうじゃない、そうじゃない」っていうのが出てくる訳じゃないですか。それのないようにしなきゃいけない。ほんとは演出家が妥協していることもあるかもしれないですよね。どこの線で妥協するかが演出家側の問題なんじゃないですか?もうパーフェクトに納得できる演出が出来ることって滅多にないでしょうからね。そしたら初日開いたら一度も観にこなくていいんだから。初日開いても観に来るってことは、演出家も納得してないって事ですから。でも、だからいいんだろうし、生物ですから、お芝居って。毎日違いますよね。「実朝」でも毎日違います。どれが正解かわからないから、いろいろやってみてお客さんの反応と。でも自分である程度「今日は良かったんじゃないかな」って思うと拍手がなかったりとか。今日はすごくいい感じで出来たんだけど、幕切れで全然拍手がなかった。とはいえ、拍手イコールそれがいいって問題でもない。そこがすごく難しいところですね。 ■新しく書かれたものなのに江戸時代の歌舞伎よりもセリフが難しいように感じましたが 「実朝」は史実にのっとったお芝居ですから。江戸時代に書かれた作品は当時の庶民というのがそんなに学問がなかった訳ですから、いかに判り易くするかっていうことだった。娯楽ですからね、原点は。けして文学でも芸術でもなくて。(いろいろな選択肢がある今だから)新作はやる時点でどこを求めるかというものになるんだと思います。そして全てがテストケースになってしまわないように、新作でもこのまま続けて再演できるもの、が必要です。そういった意味で言えば「研辰」(★4)なんていうのはまたできるんじゃないですか? あれはお稽古はもっと多かったです。ちゃんとやらないと全てのきっかけとか色々あったので。 ★4 野田版 研辰の討たれ ■コクーン歌舞伎もお稽古は長いのですか? 串田さん(演出家)は長くやりたいんですが、みんなのスケジュールの関係でなかなかね。 ■コクーンは新演出ですが新作ではない部分で「研辰〜」に比べてお稽古が短く出来るのですか? 新作かどうかじゃなくて演出方法の問題じゃないですか。串田さんは全く違った見方をしたいだろうから、本当はお稽古をいろいろやりたいんでしょうけれど。時間的に間に合わない。 つづく |
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